車載電話が切れたあと、ソンロクは一度も口を開かなかった。
城北洞の坂を下り、本館地下へ戻るまで、彼の両手はハンドルを強く握ったままだった。ジェユンも何も言わなかった。父の肩越しに見える道路標識と信号の位置だけを、頭の奥へ押し込んだ。外国銀行ソウル支店裏口。六時十分。会長車扱い。テガン建設。
半地下へ戻ったとき、空はまだ黒かった。ジョンヒは台所の明かりを消したまま眠っていた。ソンロクは靴を脱ぐ音さえ抑え、ジェユンの頭に手を置きかけて、途中でやめた。
「寝ろ。学校に遅れる」
「……はい」
布団に入ってからも、ジェユンは眠らなかった。天井の染みを見上げながら、前世で何度も作った随行動線表を思い出していた。誰が、何時に、どの入口から入り、どの車に乗り、誰がその場にいなかったことにされたのか。人は会議室で秘密を作ると思っている。だが秘密は、動いたあとに必ず跡を落とす。
朝、彼は学校へ行った。授業中、教師の声は遠かった。算数の問題を解くふりをして、学校のノートの後ろを開く。白紙のページの一番上に、鉛筆で小さく日付を書いた。
十一月七日。
その下に、最初の一行を記した。
二十三時四十分、本館地下二番、一号車、城北洞別宅。記録欄空白。
書いた瞬間、胸の奥のざらつきが少しだけ静まった。怒りを覚えておくより、記録に変えたほうが長く残る。前世のヒョヌが最後まで持てなかったものだった。
続けて名前を書いた。ハン・ドギョム。チャン・ムンシク。チェ・ミンテ。外国銀行役員。最後の一つにはまだ名前がない。だから空白を少し広めに取った。空白は消すためではなく、あとで埋めるために置く。
次の休み時間、ジェユンは職員室前の公衆電話の横に貼られた古い新聞の切り抜きを眺めた。経済面には、外貨調達、海外建設、ドル建て融資という言葉が並んでいた。小学生が読んでも不自然ではないよう、見出しだけを目で追う。記事の端に、外国銀行ソウル支店の副支店長としてマイケル・クォンという名前があった。
『これか』
ノートの空白に、その名前を書き足した。
公式随行と非公式の客は分けなければならない。公式随行は隠されにくい。名刺、受付記録、秘書室の連絡簿に痕跡が残る。だが非公式の客は、車両番号と門番の目と運転手の記憶にだけ残る。だからこそ、消される前に拾う必要があった。
ジェユンはページの中央に線を引いた。左に公式、右に非公式。公式の欄には、会長、室長、建設社長といった肩書を並べる。非公式の欄には、城北洞別宅、銀行裏口、会長車扱い、日程表なし、と書いた。
チャン・ムンシクがチェ・ミンテと会った日付には、小さな星をつけた。さらに、マイケル・クォンと別に接触したと推定される朝にも星をつける。星は派手すぎないよう、点を五つ集めただけの形にした。誰かに見られても、子どもの落書きに見える程度でいい。
その日から、ジェユンの質問は増えた。
「父さん、今日は誰の車を洗ったんですか」
「会長車だ。毎日同じだ」
「建設の人も乗りますか」
「会社のことは知らなくていい」
「銀行って、朝も開いてますか」
ソンロクは味噌汁の椀を持ったまま、少し呆れたように息を吐いた。
「お前、学校で何を習ってるんだ。銀行は大人が行くところだ」
ジョンヒが横から笑った。
「この子、熱を出してから変なことばかり聞くのよ。会社ごっこでもしてるんじゃない?」
「ごっこなら紙の車でも作っていろ」
ソンロクはそう言って終わらせた。息子の妙な質問を、子どもの好奇心として片づけたのだ。ジェユンはそれに合わせて、箸で大根をつついた。
「じゃあ、会長車はガソリンをたくさん使いますね」
「当たり前だ」
「昨日は、夜中の一時二十分ぐらいに入れましたか」
食卓の空気が、一拍だけ止まった。
ソンロクの箸が椀の縁に触れ、乾いた音を立てた。ジョンヒは気づかず、鍋のふたを閉めていた。だがソンロクの目だけが、初めて真正面からジェユンを見た。
「なんでそれを知ってる」
ジェユンは心臓が一つ強く打つのを感じた。急ぎすぎた。給油領収書は昨夜、父の上着の内ポケットから端だけ見えた。時刻欄の数字を、彼は一瞬で読んでいた。前世で領収書の束から不自然な動線を探す作業を何百回もしていたからだ。
だが、小学生が言い当てていい精度ではなかった。
「車の中で、紙が落ちてました」
「見たのか」
「数字だけです。大きく書いてあったから」
ジェユンはわざと目を泳がせ、箸を置いた。空気の読めない子どものふりをするには、少し遅れて怯えればいい。父の視線が鋭くなったまま、すぐには戻らなかった。
「会社の紙には触るな」
「……はい」
ソンロクはそれ以上追及しなかった。だがその夜から、彼は上着をたんすの上ではなく、自分の枕元に置くようになった。
ジェユンは焦らなかった。父に疑われること自体は悪いことではない。完全に子どもだと思われていれば、いざという時に言葉が届かない。だが今はまだ早い。信じさせるにも、恐れさせるにも、材料が足りなかった。
彼は再びノートを開いた。ページの端に小さく、父の反応、と書く。怪訝。警戒。上着の保管位置変更。そこまで記してから、鉛筆の芯を短く削った。
金の流れは、まだ見えない。だが水脈の音は聞こえ始めていた。城北洞で外貨の窓口を押さえ、外国銀行の役員を会長車で動かし、テガン建設のチェ・ミンテへつなぐ。表に出るのは、海外工事の受注と資金調達の美しい記事だ。裏では、誰かの給与、誰かの退職金、誰かの沈黙が担保になる。
前世のテガンは、危機のたびに上からではなく下から血を抜いた。運転手、警備員、下請け工場、臨時職。名前の小さい者から順に削り、数字だけを会長に見せた。
その最初の刃が、もう父の車の後部座席に乗っていた。
数日後、ソンロクの帰りはさらに遅くなった。玄関が開いたのは、ジョンヒが市場へ持っていく惣菜の下ごしらえを終えたころだった。彼の顔には油と疲労が張りつき、靴下の片方は濡れていた。
「ご飯、温める?」
「少しでいい」
ソンロクは椅子に腰を下ろし、冷めた麦茶を一気に飲んだ。ジェユンは食卓の隅で宿題をしているふりをしていた。ノートの後ろのページは、教科書の下に隠してある。
ジョンヒが小声で尋ねた。
「今月、また遅れるの? 市場のつけもあるし、家賃も……」
「大声で言うな」
「ジェユンは聞いてないわよ。宿題してるもの」
ソンロクはしばらく黙った。やがて、誰に聞かせるつもりもないような調子で言った。
「建設のほうのドルを塞ぐために、今月は運転手の給料も遅れるらしい」
鉛筆を持つジェユンの手が、宙で止まった。
言葉が落ちた場所は、予想していた線の上だった。だが実際に父の口から出ると、紙の上の推測とは重さが違った。テガン建設。ドル。運転手の給料。三つの単語が一本につながる。外貨の穴を、低い場所の給与で一時的に塞ぐ。前世で何度も見た手口の、最初の形だった。
ジョンヒは顔を曇らせた。
「大きな会社が、運転手の給料まで?」
「一時的だと言っていた。上が何とかする」
ソンロクはそう言ったが、自分でも信じていない声だった。ジェユンはゆっくり鉛筆を下ろした。宿題の計算式の横に、意味のない数字を書き足し、それから教科書の下のノートをそっと引き寄せた。
最初のページの一番下に、太い線を一本引いた。
線の上には、城北洞、外国銀行、チェ・ミンテ、マイケル・クォン。線の下には、新しい言葉を書いた。
運転手給与。
その瞬間、記録はただの観察ではなくなった。父の給料袋に刃が届くまでの、残り時間を測る表になった。ジェユンは鉛筆を握り直した。
次に確認すべきものは、もう決まっていた。
父の給与封筒だった。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
5話 青い管理印の先控除封筒
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