ドンスの掌に浮かぶ黒い跡を見た瞬間、テオの耳の奥で、濡れた紙をめくる音がまた鳴る。
保健室の蛍光灯は白く、薬品の匂いは現実のものだ。それなのに、包帯の隙間に見えた煤の形だけが、月影堂の燭台に残された黒い蝋の跡と重なって離れない。丸い中心から垂れる細い線。燃え尽きたはずの火が、人の肉の上でまだ湿って光っている。
ジヒョクもそれを見ていた。彼は一瞬だけドンスの手から目を離せず、次にテオを見る。いつもの嘲りはない。唇の傷が、噛みしめるたびにまた開きそうに赤い。
「……あれ、何だよ」
テオは答えない。答えられるはずがない。自分の願いが何をしたのか、テオ自身にも分からない。ただ、地下で黒い蝋燭に刻んだ四つの名前が、まだどこかで燃え続けていることだけは分かる。
保健室の中でドンスがまた呻く。
「紙……来るな……俺だけじゃねえ……」
オ・ミョンシクが慌てて扉を閉める。だが遅い。廊下にいた数人の生徒は、すでに見てしまっている。携帯を構えていた者もいた。教師が怒鳴りつけても、噂は押し込めた水のように隙間から漏れていく。
その夜、ハンビット工業高校の夜間クラスのグループチャットは、授業中よりも騒がしくなる。
――ドンスの手、黒かった。
――包帯の下、何か焼き印みたいなのあったぞ。
――あれ病気? 借金の呪いとか言ってるやついる。
――ユンの名前呼んでたの、マジで何?
テオは丘の上の一間で、祖母の薬袋を確認しながら通知を消す。ボクスンは薄い布団の中で眠り、時々、寒いのか小さく肩を丸める。部屋の隅の古い時計が、針を一つ進めるたびに壁をかすかに鳴らす。
携帯の画面は暗い。けれどテオは、黒いガラスの奥にまた文字が浮かぶのではないかと見てしまう。
次は、誰が払う。
あの問いは消えていない。ドンスの掌の跡が、その答えの途中なのだとしたら。
『次は……ミンギュか、ジヒョクか』
胸の奥に浮かんだ名前を、テオはすぐ押し潰す。望めば動く。そう思った瞬間、指先に甘い痺れが戻ったからだ。
翌日の昼過ぎ、学校の掲示板より先に、別の知らせが夜間クラスへ流れ込む。ソンジン下請けの実習場で事故が起きた、という短い噂だった。
最初は誰かの冗談に聞こえた。だが夕方になると、写真が添えられる。灰色の床に散った工具。焦げた匂いまで伝わってきそうなCNC制御盤。赤い警告ランプの割れたカバー。作業着の袖を濡らした男が、救急車へ運ばれていく横顔。
――制御盤が過熱したって。
――リレーが焼けたらしい。
――ソンジンの実習場、昨日まで普通に動いてたんだろ?
――またハンビット絡みだってよ。
テオはその写真を見た瞬間、胃が沈む。CNC。制御盤。焼けた部品。その言葉だけで、旧棟一階の機械加工室の切削油の匂いが鼻の奥に戻る。歯車に絡まった自分の予備手袋。チャン・ムンホの冷たい目。見積書。合意書。マ・サンチョルが読み上げた祖母の住所。
夜間授業の前、テオは職員室前へ呼び出される。
チャン・ムンホが紺の作業服で立っている。顔には睡眠不足の影があり、分厚い手に紙の束を握っていた。その横にはオ・ミョンシク、さらに廊下の奥からは、赤い顔をさらに赤くしたマ・サンチョルが大股で近づいてくる。
「ユン・テオ」
ムンホの声は低い。
「またお前か」
その一言で、テオの背筋に冷たいものが走る。
「俺は何もしてません」
「まだ何も言ってない」
マ・サンチョルが笑わずに言う。分厚い腹を前に出し、テオの顔を値踏みする目で見下ろす。
「ソンジンの実習場で事故があった。CNCの制御盤が焼けて、作業者が手を負傷した。で、妙なんだよ。部品の故障が、前にお前が壊した機械の件と似てる」
「俺が壊したんじゃありません」
「口答えするな」
ムンホが紙を叩く。廊下の空気が固くなる。通りかかった生徒たちが足を遅め、オ・ミョンシクの視線に追われて慌てて離れていく。
「実習室で問題を起こしたあと、今度は外の実習場だ。偶然にしては出来すぎている」
「ユン、正直に言え。誰かに何か渡したのか。部品を持ち出したのか」
オ・ミョンシクは責める声を抑えているが、目はもう結論を決めている。就職率評価、推薦、学校の信用。彼の中では、それらを守るために一番弱い名前を差し出せばいいだけなのだ。
テオは拳を握る。
「俺じゃありません。ソンジンの実習場なんて、行ったこともありません」
「行かなくても、部品は動く」
マ・サンチョルが一歩近づく。
「誰かに売ればな」
その時、職員室の中から事務職員が出てくる。顔を青くし、ムンホへ小さなUSBメモリを渡した。
「先生、下請け側から追加で映像が来ています。倉庫の監視カメラです」
ムンホの眉が動く。マ・サンチョルが舌打ちしながら職員室へ入る。テオも逃げるなと腕をつかまれ、入り口横の古いモニターの前に立たされる。
映像は粗い。ソンジン下請けの倉庫らしい場所だ。棚には制御部品の箱が積まれ、床には薄い埃がある。時刻表示は事故の前日、夜の九時過ぎ。
画面の端から、一人の生徒が入ってくる。
イ・ミンギュだった。
携帯電話を片手に持ち、何度も後ろを振り返りながら、棚の下段へ近づく。彼は上着の内側から小さな透明袋を取り出した。中には黒ずんだリレーが数個入っている。ミンギュはその袋を、未使用部品の箱の奥へ滑り込ませ、別の箱を手前へ戻す。
音はない。だが動きははっきりしている。
職員室の空気が変わる。
マ・サンチョルの顔から血の気が引き、次に怒りで赤くなる。ムンホは画面へ顔を近づけ、息を止めたように黙る。オ・ミョンシクだけが、どう処理すれば学校の傷を浅くできるか計算する目になっている。
「……ミンギュ」
誰かが廊下でつぶやく。
映像は続く。ミンギュは袋を隠したあと、携帯で棚を撮影し、何かを送信するように画面を叩く。拡大された別角度の映像では、袋に貼られた小さなシールまで見えた。
不良リレー。廃棄予定。使用禁止。
テオの喉が鳴る。
その黒ずんだリレーの形を、彼は知っている。旧棟一階の機械加工室で、ジヒョクが制御盤の下へ手を入れた時、ドンスの体に隠れて一瞬だけ見えた小さな部品。あの時、ミンギュは工具棚のそばで見張り、携帯を構えていた。
歯車に絡まったのは手袋だった。けれど手袋だけで、制御盤の異常まで起こせたのか。ずっと胸のどこかで引っかかっていた違和感が、急に形を持つ。
『あの時も、これを使ったのか』
テオの手が震える。
ムンホが別の書類を開く。そこにはソンジン側の聞き取り記録があった。不良部品を安く買った作業員の証言。学生から余り物だと言われたこと。現金で数万ウォンを渡したこと。名前を聞くと、相手はハンビットのイ・ミンギュと名乗ったこと。
「ふざけんな……」
マ・サンチョルの声が掠れる。
「学生が売った不良品で、うちの作業者が怪我したってことか。おい、チャン先生。これは学校の管理問題だぞ」
ムンホの額に汗が浮かぶ。さっきまでテオへ向いていた圧力が、急に別方向へ流れ始める。彼は紙を握り潰しそうな手で、オ・ミョンシクに言う。
「イ・ミンギュを呼べ。今すぐだ」
十分後、ミンギュは職員室へ連れてこられる。普段の軽さは消え、携帯電話を握る手だけが忙しく動いている。画面を隠そうとするが、ムンホに取り上げられた。
「これ、お前だな」
映像を見せられたミンギュの顔が白くなる。
「違……俺、ただ頼まれて」
「誰に」
ミンギュの目が一瞬、廊下の向こうへ泳ぐ。そこにジヒョクはいない。それでも彼は名前を出せない。
「前の実習室の時もか」
ムンホの声がさらに低くなる。
ミンギュは唇を震わせる。沈黙が答えになる。職員室の誰もが、それを理解した。
「余った部品を売っただけです。壊れるなんて思わなかった。小遣いが……ちょっと欲しかっただけで」
マ・サンチョルが机を蹴る。
「ちょっとで人の手が焼けたんだよ! 損害賠償、全部お前と保護者に請求する。退学で済むと思うな」
退学。損害賠償。その言葉に、ミンギュの膝が目に見えて揺れる。彼は助けを求めるように周囲を見回し、最後にテオを見た。
その目には、恨みがあった。
なぜ自分だけが。なぜ急に見つかった。そう叫びたい目だ。
テオは息を浅くする。自分は監視カメラを探していない。告発もしていない。月影堂の鏡を開いたわけでもない。それなのに、不良リレーは倉庫の映像の中から勝手に這い出し、ミンギュの手をつかんでいる。
罪が、隠した場所から自分で顔を出してくる。
呪いは誰かを殴らない。刃物も持たない。ただ、彼ら自身が踏んできた足跡を、明るい場所へ引きずり出す。ドンスには血の借用書を見せ、ミンギュには隠した部品を売った記録を戻す。なら、ジヒョクには何が返るのか。
テオの手の震えが止まらない。
恐怖だけではない。あの甘い痺れが、今度は背中の奥まで伸びる。自分にかぶせられた手袋事件の嘘が、音を立てて剥がれ始めている。嬉しいと思ってしまった。ざまあみろ、と一瞬でも思った。その事実が、テオ自身を一番深く冷やす。
ミンギュが職員室の椅子に座らされ、保護者への連絡と懲戒委員会の話が始まる。マ・サンチョルは作業者の治療費と停止したラインの損害を並べ、ムンホは学校の備品管理表をめくり、オ・ミョンシクはテオの存在を厄介な証人のように横目で見る。
テオは静かに職員室を出る。
廊下の窓は夜の色に沈んでいる。遠くで生徒たちのざわめきが聞こえる。ドンスの黒い掌。ミンギュの監視カメラ。次々と返ってくる罪の形。そのすべてが、月影堂の帳簿の頁を一枚ずつめくる音に聞こえる。
携帯電話が震えた。
テオは画面を見る前から、嫌な予感がした。ジヒョクではない。担任でもない。表示された名前は、マ・サンチョルだった。
メッセージは一行だけだった。
明日すぐ事務所へ来い。
画面の黒い余白に、まだ文字は浮かんでいない。だが彼には分かる。呼び出しは事情確認ではない。罠が、今度は自分の名前を待っている。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
14話 錆びた工具が落ちる時
次の話