ジヒョクが掲げた携帯の光が、テオの目の奥に刺さる。ミョンジンヴィラ三〇二号の玄関。古い番号札。剥がれかけた郵便受け。そこに、ついさっき誰かが立って撮ったような角度がある。
荷台の中でラヒムが息をのむ。ナルギザが少年二人を抱き寄せる気配も伝わる。テオはハンドルを握ったまま、窓の向こうのジヒョクを見る。怒鳴れば終わる。前へ突っ込めば、ワゴン車にぶつかって荷台の六人が潰れる。
ジヒョクは口だけで笑う。
「戻るよな、ユン。ばあさん、一人だろ」
その声は窓越しでくぐもっているのに、喉元へ直接触れてくる。
テオはブレーキを踏んだ足をゆっくり緩める。トラックは前へ出ない。代わりにギアを乱暴に入れ替える。物流倉庫で何度も見た運転手の動きを、体が遅れてなぞる。
「伏せろ」
荷台へ短く告げた次の瞬間、テオはアクセルを踏み込む。トラックは前ではなく後ろへ跳ねた。悲鳴が上がり、荷台の金属が軋む。背後には廃材置き場を囲う古い塀がある。薄いコンクリートと錆びた鉄柵だけの、工場の端の忘れられた境界だ。
ワゴン車のヘッドライトが揺れる。ジヒョクの顔から笑いが消える。
「おい、何して――」
言葉の終わりを、衝撃が潰す。
箱型トラックの後部が塀へめり込み、古いコンクリートが砕ける。車体全体が斜めに持ち上がり、テオの胸がハンドルへ叩きつけられる。肺の空気が抜ける。だが壁は完全には耐えない。ひび割れた塀の一部が外側へ崩れ、暗い路地へ穴を開ける。
「もう一回……!」
テオは再びアクセルを踏む。タイヤが空転し、砕けた石を飛ばす。追手の怒号が近づく。ワゴン車のドアが開く音もする。だがトラックは尻を振り、崩れた塀を押し広げながら、狭い裏道へ強引に滑り出る。
右側のミラーが鉄柵に引っかかって千切れる。荷台が古い電柱をかすめる。テオはそれでも止まらない。ハンドルを切り、暗い倉庫裏の路地へ車体をねじ込む。正門を塞いでいたワゴン車は方向転換できず、ヘッドライトだけが壁の向こうで乱れている。
荷台からラヒムの声がする。
「出た……出た!」
安心ではない。まだ逃走の途中だ。テオは息を吸い、携帯の地図を一瞬だけ見る。港の方角。第十五埠頭の近くに、以前スクリーンショットに残した移住労働者シェルターがある。警察ではなく、まずそこへ。
古いトラックは速度を出せない。エンジンは何度も咳き込み、後ろの荷台からは誰かが痛みをこらえる低い声が漏れる。テオは大通りを避け、コンテナ置き場の脇、魚市場の裏、誰も歩かない冷えた路地を選ぶ。港へ近づくほど、潮と油と鉄の匂いが濃くなる。
ジヒョクは追ってこない。追えないのか、別の場所へ回ったのか分からない。分からないことが、むしろ胃を冷たくする。
仁川港近くの古い二階建てビルの前で、トラックはようやく止まる。看板の電気は半分切れ、ハングルと英語といくつかの外国語で、夜間相談、労災、未払い賃金と書かれている。ドア横のインターホンを押すと、しばらくして細い光が漏れた。
出てきた女は三十代ほどで、髪を後ろに束ね、厚いパーカーの上にスタッフ証を下げている。眠気より先に警戒が目に立つ。
「誰ですか」
「東洋金属から逃げてきた人たちです。怪我してます」
テオが言うと、女の視線がトラックへ走る。荷台の扉が開き、ラヒムが崩れるように降りる。手の布は赤黒く濡れ、ナルギザの頬には乾いた涙の跡がある。少年二人は裸足に近い靴で震えていた。
女の顔色が変わる。
「中へ。早く」
それでも彼女は、全員を入れながらテオだけを玄関脇に止める。
「私はハン・ジュヨン。ここに匿う。でも、相手が人材会社と工場なら、すぐに捜しに来る。警察へ出せる証拠がないと、この人たちをただの不法滞在者として奪い返される」
「あります」
テオは携帯を出す。画面には、東洋金属の罰金帳簿、ジンミョン人材のロゴが入った控除明細、白蛇の印、鉄扉、血のついた小窓、寮の動画が順に並ぶ。ラヒムが渡した写しの写真もある。
ジュヨンは一枚ずつ無言で見る。怒りを表に出さない代わりに、目だけが鋭くなる。
「原本は?」
「工場の中です。登録証とパスポートも事務所に」
奥からラヒムがたどたどしく言う。
「私、名前、ラヒム。みんな、働いた。給料、ない。帰る、できない」
ジュヨンは彼へうなずき、テオへ向き直る。
「この動画と写真、私の端末へ送って。すぐ弁護士と労働団体へ回す。警察にはこちらから話を通す。あなたは?」
「俺は、行きます」
「待って。あなたも未成年でしょう。怪我もしてる」
テオは自分の胸元を見る。ハンドルにぶつかった痛みが遅れて広がり、手首には黒い蝋が乾いてこびりついている。
「家族がいる」
それだけで、ジュヨンは引き止める言葉を一つ飲み込む。代わりに小さな紙片を渡す。
「困ったらこの番号。直接私に繋がる。名前は?」
「ユン・テオ」
答えた瞬間、地下の帳簿に滲む自分の名が頭をよぎる。名前を渡すこと自体が、もう安全ではない気がした。
シェルターの奥では、スタッフが救急箱を開け、温かい水を配っている。ラヒムがテオを見つけ、片手を胸に当てて頭を下げる。
「ありがとう、テオ」
テオは返事をしない。ただうなずく。救えた。少なくとも今夜、六人は檻へ戻らない。そのはずなのに、胸の底には安堵より重いものが沈む。
同じ頃、ジンミョン人材の応接室では、カン・ムンシクが声を荒らげながら受話器を握りしめている。
「警察を先に動かすな。労働団体に嗅がれたら終わりだ。シェルターを洗え。港の周りだ」
受話器の向こうで、マ・サンチョルが荒い息を吐く。
「俺にやらせるのか。今、俺が動けば目立つ」
「お前の現場の人間を使え。路地を見るだけでいい。見つけたら連絡しろ。表に出すな」
ムンシクは電話を切り、机の上の帳簿写真を睨む。白い蛇の紋様が押された下部だけが、ぼやけた画面の中でやけに鮮明だった。
サンチョルの車は、それから三十分もしないうちに仁川港の倉庫街へ入る。彼は自分で降りず、下請けの男たちを二手に分ける。シェルターの正面ではなく、裏口、非常階段、古い市場へ続く細い路地。濡れた路面に、白いバンのライトが低く這う。
その時、テオはもうシェルターにはいない。
ヴィラへ戻るべきだと、頭は何度も命じてくる。ボクスンの薬。鍵。ジヒョクが見せた玄関写真。今すぐ走れば、まだ間に合うかもしれない。
だが、足は別の方向へ向かう。丘へ続くバス停ではなく、仁川駅裏の半分塞がれた階段へ。ジヒョクが祖母の写真を見せた以上、ヴィラには目がある。そこへ直行すれば、自分から敵を連れて帰ることになる。
『まず鏡だ』
そう考えた瞬間、胸の奥が冷える。あの店へ戻ることを、もう自分は当然の選択にしている。
月影堂の扉を押すと、濡れた紙をめくる音が待っていたように鳴る。鏡の布は落ちていない。けれど、布越しに赤黒い光がにじんでいる。
「映せ」
テオは低く言う。
鏡はすぐにはジヒョクも、ボクスンの玄関も映さない。代わりに、テオの携帯から送った帳簿写真の一枚を黒い水面のように広げる。ジンミョン人材の控除明細。その下部。小さく押された白い蛇の紋様。
鏡の中で、その印だけがゆっくり拡大される。
白い蛇は輪になっていない。頭を持ち上げ、紙の外へ這い出そうとしている。印の横に、テオが工場では見落としていた細い文字が浮かぶ。
白蛇金庫回収委託。
テオの顔から血の気が引く。
ジンミョン人材ではない。東洋金属でもない。ラヒムたちを檻に入れていた帳簿のさらに下に、回収を任された別の名前がある。鏡の奥で、テオと同じ声が静かに笑った。
「やっと見たね」
その瞬間、白い蛇の印が、鏡の内側からこちらを見返すようにぎらりと光った。
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
26話 回収帳簿の侵入者
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