その一文字が、息をするように濃くなる。
ユ。
帳簿の空白に浮かんだその線を、テオは文字として認められない。偶然に染みた黒い汚れだと思おうとする。だが線の端は、彼が学校の提出物に何度も書いた自分の姓と同じ角度で曲がっている。ユン・テオ。その始まりが、誰にも触れられていない紙の中から滲み出していた。
「違う」
声が喉の奥で割れる。自分の名前を書くために火をつけたのではない。あいつらの名前を刻んだ。カン・ジヒョク、パク・ドンス、イ・ミンギュ、マ・サンチョル。受けたものを返してほしいと願っただけだ。なぜ自分の名が出る。
テオは反射的に手を伸ばす。濡れた紙に染みが広がる前に、指でこすって消せばいい。合意書の署名欄に落ちた黒点を、爪で削り取ろうとした時のように。
指先が帳簿へ届く前に、黒い炎がふっと横へ傾いた。
熱はない。けれど冷たい刃のようなものが手のひらをかすめる。テオは息を呑み、手を引く。皮膚は焼けていない。ただ、触れられた場所だけがひどく重い。まるでそこに見えない印鑑を押されたように、血の流れが一瞬止まった。
「消えろ……」
テオはもう一度、炎へ息を吹きかける。黒い芯は揺れるだけで消えない。普通の火なら、小さな一息で消えるはずだった。だがそれは光ではなく、闇が立ち上がった形のように、周囲の空気を吸いながら細く伸びる。燭台の根元に垂れた蝋も黒い。床へ落ちた粒は音もなく沈み、埃の中へ染み込んでいく。
その時、奥の布がまた膨らんだ。
テオは帳簿から目を剥がし、店の奥を見る。携帯電話のライトは床に転がっている。弱い光の端で、長方形の布だけが内側から息をしている。ぎい、と鏡を引っかく音が戻る。だが今度は爪の音だけではない。布の下で、水に浸した紙が何枚も重なってずれるような音がする。
布の表面に、黒い文字が浮かぶ。
はじめは墨の垂れた跡に見える。やがてそれは縦に並び、古い文言の形を取った。テオには読めない漢字が混じっている。それでも、いくつかの語だけが、なぜか意味を持って頭に沈んでくる。戦乱。避難。米。薬。葬儀。貸付。名。血印。
布が滑り落ちた。
鏡が現れる。
古い木枠には焦げたような黒い斑点があり、角は虫に食われて欠けている。鏡面は埃をかぶっているはずなのに、そこだけ水の底のように深い。テオの姿は映っている。濡れた髪。黒い目の下。青ざめた唇。だが表面に浮いた文言は、反射を押し退けるように鏡の内側から上がってくる。
『戦乱の時、巫堂(ムーダン)ウォリョン、高利の者らと契り、名を帳に綴じる』
文字は古いのに、内容だけは今の言葉のように理解できる。
『借りし者の泣き声を質とし、貸しし者の印を門とし、名を食らいて怨みを返す』
テオの背中を冷たい汗が流れる。ボクスンが昔話のように言った、名前を食べる占い処。その言葉は子どもを怖がらせるための話ではなかった。ここは最初から、借金と泣き声を食べる場所だった。
鏡の文字は止まらない。行の下に、さらに細い文字がゆっくり浮かぶ。黒い蝋燭の炎が、その一字ごとに小さく跳ねる。
『貸し手、逃れし時。借り手、死せし時。帳は欠ける。欠けたる帳を満たすは、最後の債務者の絶望なり』
テオは口の中が乾くのを感じる。
最後の債務者。
その言葉が鏡の中で濃くなり、帳簿の空白に滲んだ「ユ」と同じ黒さを帯びる。誰のことか、考えるまでもない。自分だ。金を奪われ、嘘を押しつけられ、祖母の名前で脅され、警察に退けられ、学校から逃げ、ここへ降りてきた。全部塞がれたあとに残った、最後の絶望。
『違う。俺は、借りてない』
心の中で叫ぶ。声にはならない。借りていない。給料を奪われたのは自分だ。払えない修理費を押しつけられたのも自分だ。祖母を守るために走り回ったのも自分だ。債務者などではない。
だが鏡は、テオの反論を聞かない。
『名を差し出し、怨みを願い、黒火を灯す者。最後の債務者として契約を成す』
文言の最後の一行が、ゆっくり鮮明になる。
『その絶望により、禁書は完きものとなる』
テオは後ずさろうとする。
逃げなければならない。今ならまだ、名前は一文字だけだ。帳簿を閉じ、蝋燭を折り、地上へ走る。警察でも学校でも、もう何でもいい。こんなものよりましだ。そう思って足を動かそうとした。
動かない。
靴底が床に貼りついている。濡れたコンクリートでも、蝋でもない。床の下から何か細いものが伸び、足首に絡んでいるようだった。テオは力を込める。膝が震える。だが足は一寸も離れない。
「離せ」
短い声が月影堂に落ちる。返事はない。代わりに、鏡の中のテオが顔を上げた。
現実のテオは泣いていた。いつ涙が出たのか分からない。頬を伝う冷たい筋が、顎の先で震えている。怖い。悔しい。自分が何を始めてしまったのか分からない。ジヒョクを殺したいと思った時より、ずっと深い場所が凍っている。
なのに、鏡の中のテオは笑っている。
片方の口角だけを上げている。ジヒョクに似た笑みではない。もっと古く、もっと薄い。人が泣く理由をすべて知った上で、それでも足りないと言うような笑みだった。
テオは目をそらせない。
鏡の中の彼が、ゆっくり唇を動かす。
音は聞こえない。だが形だけで分かる。
――足りない。
「やめろ」
今度は声が出る。月影堂の狭い天井へぶつかり、すぐに吸われる。黒い炎が高く伸びた。燭台が震え、帳簿の頁がひとりでにめくれる。古い名前の列が一瞬だけ見え、赤い拇印が小さな目のようにこちらを見る。
地面が沈んだ。
最初は眩暈だと思う。だが違う。月影堂の床が、地下商店街ごとさらに深い場所へ落ちていくように揺れている。天井から埃が降り、壁に走っていた亀裂がぱきりと音を立てて広がる。錆びた棚が壁に当たり、木箱の蓋が跳ね、古い護符が床を滑る。
店の外の商店街から、シャッターが一斉に鳴る音が押し寄せる。閉じた店。壊れた看板。誰もいない通路。そのすべてが、眠りから無理やり起こされたように軋んでいる。
壁の亀裂から匂いが流れ込んだ。
黴ではない。濡れた土だけでもない。古い米俵、腐った薬草、血を含んだ紙、燃え残った葬儀の香。何十年も閉じ込められていた飢えと利息の匂いが、一度に押し寄せてくる。テオは吐き気を堪え、口元を押さえる。
その中で、蝋燭に刻んだ四つの名前が動いた。
カン・ジヒョク。
パク・ドンス。
イ・ミンギュ。
マ・サンチョル。
刃で削った溝が、内側から赤くも黒くもない色を帯びて浮かび上がる。次の瞬間、四つの名前が同時に燃えた。炎が増えたのではない。一本の黒い火の中で、四つの名だけが別々の芯を持ったように、音もなく燃え上がる。
テオは息を忘れる。
熱はない。火の粉も飛ばない。蝋燭は短くならない。ただ刻まれた名から細い煙が立ち上る。煙は灰色ではなく、黒い糸のようにまっすぐ伸びる。月影堂の空気は激しく揺れているのに、その煙だけは少しも曲がらない。
一本目は鏡の上へ。
二本目は帳簿の空白へ。
三本目は天井の亀裂へ。
四本目は、テオの手のひらをかすめた黒い跡へ。
彼は最後の一本から目を離せない。煙は皮膚に触れているように見えるのに、感触はない。だがその先で、知らない道が開いていく気配がある。地下商店街の天井よりもっと上。学校の廊下、相談室の白い紙、警察署の開かれなかったファイル、祖母の住所を読み上げた声。そのすべてへ向かって、黒い糸が音もなく伸びていく。
煙は天井で消えない。
亀裂の奥に吸い込まれる寸前、四本の煙が一度だけ絡み合い、帳簿の空白へ影を落とす。ユの横に、次の染みが生まれかける。ンになるのか、テになるのか、それとも別の文字なのか。テオは見たくないのに、目を閉じられない。
背後で、鏡がもう一度深くなる音がした。
水面に巨大な石を落としたような、低く重い音だった。テオの足を縛っていた感覚がふっと緩む。けれど体は動かなかった。地下商店街全体に、今まであった水音も、蛍光灯の唸りも、シャッターの軋みも消えた沈黙が降りる。
その沈黙の底で、鏡の中の笑っているテオだけが、まだ唇を動かしていた。
今度は、音が聞こえた。
「契約は、受け取った」
黒い蝋燭にいじめっ子の名前を刻んだ夜、俺は裏社会の鏡王になった
10話 血に濡れた古い借用書
次の話