若い代理の視線が動いた瞬間、ドギョムは角の向こうへ消える。
走らない。背中を丸めない。濡れた舗装の上で靴音を殺し、閉じた理髪店のガラスに映る道路を一度だけ見る。増えたパトカーの助手席で、若い代理が無線機に何かを吹き込んでいる。まだ確信ではない。見た、ではなく、見えたかもしれないという声だ。
その差だけが、今のドギョムに残された幅だった。
昼の間、彼は町の中心から北へ少しずつ離れる。食料品店の裏、錆びた給水塔、閉鎖された洗車場の排水溝。カメラのある角では顔を下げず、見る側に迷わせる速度で通り過ぎる。ダッフルバッグは片方の肩ではなく背中へ回し、軍用ブーツの泥は二度、水たまりで落とす。
夕方になるころ、町の北側にある廃モーテルへ着く。看板はSUNCRESTの文字が半分落ち、受付棟のガラスは内側から新聞紙で塞がれている。サンセットではない。営業台帳も老人もいない。十年以上、名前を書かせる者がいない場所だ。
二階の外廊下は途中で床板が沈む。ドギョムは沈まない端だけを踏み、七号室の前で止まる。ドアの鍵は死んでいる。針金を差すと、錆びた舌が乾いた音で引っ込む。
中はセメントが剥がれ、壁紙の下から灰色の肌がむき出しになっている。ベッドは骨だけ残り、窓のブラインドは半分折れている。ドギョムはまず床を見る。古い足跡、ガラス片、ネズミの糞、雨漏りの筋。新しい人間の線はない。
軍用寝袋を壁から離して広げる。缶詰は二つだけ、ドアから見えない浴槽の中へ置く。包帯とカセットはダッフルバッグから出さない。出入口の内側には、隣の部屋から運んだ濡れたマットレスを立てる。蹴破れば開く。だが一拍遅れる。その一拍で窓へ届く。
窓の外には、廃プールと裏の雑木林がある。飛び降りれば足首を痛める高さだが、死にはしない。ドギョムはカーテンの隙間を二本の指で作り、町の低い灯りを見る。
『外なら、俺だけを見る』
言った言葉は正しい。だが正しい言葉ほど、あとで血を払わせる。
同じ夜、ヘナズ・ダイナーの客席は、いつもの半分にも満たない。夕食時なのに、五つのテーブルのうち三つが空いたままだ。来た客も長く座らない。コーヒーの湯気が立つ前に窓の外を見て、テレビの音量が上がると肩を固くする。
ラジオでは一時間に一度、プライスのインタビューが繰り返される。
「ブラスヒルは、回復を信じる町です。外から来た暴力に、住民が協力して屈しない姿勢を示すことが大切です」
同じ言葉。同じ息継ぎ。同じ穏やかな声。だが繰り返されるたび、店内の椅子は一つずつ軽くなる。
常連の三人が入ってくる。いつもならカウンターの端に並び、焦げたベーコンと卵を頼む男たちだ。ヘナが「何にします」と聞く前に、ラジオがまたプライスの声を吐き出す。三人は互いの顔も見ない。一人が帽子のつばを下げ、もう一人がポケットの小銭を握り直し、最後の一人がドアを開ける。注文はない。ベルだけが乾いて鳴る。
ヘナは皿を拭き続ける。布巾の下の左手首が少しだけ白い。
閉店前、若い代理ではない別の保安官代理が来る。封筒を取りに来る曜日ではない。だがヘナはカウンター下から茶色い封筒を出す。薄くした封筒だ。厚くすれば疑われる。空にすれば殴られる。
代理は封筒を受け取り、重さを指で測る。すぐには帰らない。カウンター越しに身を乗り出し、ヘナの肩を人差し指で押す。強くはない。客が見ても、触れただけに見える力だ。
「よそ者を隠す店は、最初から保安官が見るとは限らない」
ヘナは目を下げない。
「何の話ですか」
「衛生検査から変わる。冷凍庫、ガス管、排水溝、天井裏。店ってのは、見る場所が多い」
指がもう一度、肩を押す。古い火傷の痛みではない。だが同じ種類の支配だ。
「コーヒーを飲むなら払ってください。説教なら外で」
代理は薄く笑い、封筒を胸ポケットへ入れる。
「強い女は嫌いじゃない。だが、強い店は燃えやすい」
ドアベルが鳴る。去ったあと、店内に残った二人の客も代金を置いて立つ。ヘナは止めない。空いた椅子の数だけ、町の目が増えている。
圧力は学校にも届いている。
翌日の午後、ミゲルの机には白い紙が貼られている。数学の教科書を置く位置に、透明テープで四隅を留めてある。太い黒マーカーで『テロリストの弟』と書かれている。
教室に入った生徒たちは見ないふりをする。見ないふりの仕方が下手な者ほど、笑いを噛み殺す。教師は黒板の前で出席簿をめくり、紙には触れない。
ミゲルは席の前で止まる。右手の添え木の上から、包帯の端が少し汚れている。彼は紙を剥がす。テープの音が教室に大きく響く。丸めてゴミ箱へ投げれば、誰かがまた笑う。破れば、怒っていると書かれる。
だから彼は紙を折る。四つに折り、さらに二つに折り、胸ポケットへ入れる。
黒い文字は内側へ隠れる。だが消えない。
授業が終わると、ミゲルは弁当箱を持って放送室へ向かう。廊下にはプライスの標語が印刷された安全週間のポスターが貼られている。階段の踊り場では、保安官代理が学校事務員と話している。ミゲルは歩幅を変えない。目を合わせず、遅すぎず、早すぎず進む。
放送室の鍵は、前に複製した薄い鍵で開く。中には古い短波受信機、校内放送用のマイク、棚に積まれた演劇部のカセットがある。ミゲルはブラインドを下ろし、弁当箱の底から昨日の残りではない新しいテープを取り出す。
赤い録音ボタンを押す。
最初はノイズだけだ。やがて保安官事務所の声が混じる。若い代理の報告。別の男の笑い。紙をめくる音。そしてラウクの声が、乾いた刃のように入る。
「廃モーテルの一斉点検要員を二倍にしろ。外郭北側を先に潰す。名簿はいらん。人がいない建物ほど、部屋を数えろ」
ミゲルの指が停止ボタンの上で止まる。
別の声が聞く。
「対象の絞り込みは」
ラウクは一拍置く。その短い沈黙の中で、ミゲルの喉が鳴る。
「七号室」
それだけだった。
続く指示はすぐノイズに食われる。だが数字は消えない。七号室。町の北側。廃モーテル。ミゲルはテープを止め、巻き戻さず抜き取る。弁当箱へ戻す時間も惜しい。胸ポケットの紙が汗を吸い、黒い文字が服の内側へにじんでいく。
彼は放送室を飛び出す。廊下の端で教師が何かを呼ぶが、振り返らない。階段を二段飛ばしで下り、裏口の自転車置き場へ走る。チェーンロックを外す指が一度滑り、折れた指の奥へ痛みが突き上がる。それでも止まらない。
ペダルを踏む。校庭の砂利が後輪で弾ける。背後では学校のスピーカーが午後のチャイムを鳴らし始める。穏やかな四音が、町の上に薄く広がる。
ミゲルはその音を背中に受け、ヘナズ・ダイナーへ向かって全力で走る。ポケットの中の紙は汗で濡れ、テロリストの弟という黒い字が潰れて、皮膚にまで移りそうになっている。
角を曲がった先で、保安官事務所の車が二台、ヘナの店とは反対の北側へ走っていくのが見えた。
ミゲルはブレーキをかけない。弁当箱の中でカセットが硬く跳ねる。彼の口から、声にならない数字だけが漏れる。
七号室。
その数字は、もうドギョムの隠れ場所ではなく、ラウクが扉を開ける順番になっていた。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
44話 七号室に残された血痕
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