細い光は、雨に揺れずに立っていた。
ドギョムは画面へ視線を残したまま、右手だけをカウンターの下へ滑らせる。そこには錆びた靴磨き用の金属べらがある。刃物ではない。だが喉へ押しつければ、声を止めるには足りる。
非常口の隙間が、指一本ぶんだけ広がる。
「撃たないで」
低い声だった。
ヘナだ。
ドギョムは振り向く前に、通路の奥、さらにその向こうの雨音を聞く。足音は一人。呼吸は浅い。濡れた布の擦れる音がある。保安官代理の革ベルトや無線機の鳴りはない。
それでも彼は金属べらから手を離さない。
「ひとりか」
「ひとりです」
ヘナは非常口を内側から閉めた。細い光が消え、ボウリング場はまた青白い画面だけの場所になる。彼女のコートは肩から裾まで雨を吸い、黒髪の端から水が落ちていた。左手首の火傷跡が、濡れた袖の下で白く見える。
「ここは、もう知られています」
「知ってる」
「なら、早く見てください」
ヘナはカウンターまで来ると、コートの内側に腕を入れた。防水袋が二つ、胸と背中の間に平たく隠されている。彼女はそれを古いカウンターの上へ置いた。袋の端は濡れていない。雨の中を歩いてきた人間の荷物にしては、守り方が徹底していた。
「グラディスからです。昨夜、追加で持ち出した分。死亡診断書の写し。全部じゃないそうです。でも、照合には足りるって」
ドギョムはエクセルの入力を止めたまま、メモ帳の画面を横へ少しずらす。五桁の識別番号、日付、空白。その隣にヘナが袋を開き、白い紙の束を一枚ずつ出していく。紙はコピーの黒いにじみを持ち、端に古いホチキスの穴がある。
「尾けられたか」
「二回、店の前を車が通りました。三回目は通らなかった。だから出ました」
「それは答えになってない」
「尾けられていたなら、今ごろここは囲まれています」
ヘナはそれだけ言い、紙を押さえた。指先は少し震えているが、紙の角はずれない。
ドギョムは反論しない。彼は一枚目の死亡診断書を取り、上の識別番号を見る。五桁。メモ帳内検索。画面の該当行には同じ番号があり、右側に死亡日が入っている。
診断書の死亡日も同じだった。
彼は横へ置く。
二枚目。同じ。三枚目。同じ。死亡日が入っている行には、診断書がある。診断書には死因がある。急性中毒、呼吸不全、心停止、事故性過量摂取。どれも整いすぎた言葉だが、紙としては完了している。
ヘナは何も言わない。
四枚目、五枚目、六枚目。ドギョムは紙を並べる速度を上げる。番号。検索。日付。診断書。死亡欄。行の右側。日付がある者には、必ず紙がある。古いボウリング場のカウンターに、死者として処理された人間の列ができていく。
「死んだ人だけの名簿ですか」
ヘナが低く聞く。
「違う」
ドギョムはミゲルの母の写真を横に置いた。裏の五桁番号を検索する。結果は一つ。右欄は空白。途中まで入力されたような跡も、死亡日の確定もない。
彼は死亡診断書の束をめくる。
ない。
もう一度めくる。番号の順番は荒い。グラディスが急いで抜いたせいだ。だが同じ範囲の前後はそろっている。ミゲルの母の番号だけが、紙の束の中に存在しない。
ヘナが息を止める。
ドギョムはジョアン・リバースの行を探す。JR32。ビラ。メモ帳。数字フォルダ。彼女の名はここにはない。だがジョアンの取材メモの末尾にあった仮番号を、彼は別の紙片から拾っていた。検索する。
出る。
右欄は空白のままだ。
死亡診断書の束には、やはりない。
「空白は、生きている印じゃない」
ドギョムは紙から目を上げずに言う。
ヘナはカウンターの角をつかむ。濡れた袖口から水が一滴、床へ落ちる。
「じゃあ、何ですか」
「死亡処理じゃない。釈放処理でもない。移送完了でもない。保留だ」
「保留」
「紙の上で死なせることも、外へ戻したことにすることもできない人間。どこかへ売ったか、隠したか、まだ使っているか。死んだのか生きているのかさえ、決められていない欄だ」
言葉にすると、ボウリング場の空気がさらに冷えた。
空白は救いではなかった。死亡日がないことは、墓がないことと同じではない。むしろ逆だ。死者には処理がある。紙があり、署名があり、偽造された死因がある。空白の者にはそれすらない。死体にも戻れず、生存者にも戻れず、数字のまま別の場所へ運ばれる。
ヘナはミゲルの母の写真を見た。若い頃の笑顔が、コピーの黒い死亡欄の隣で妙に明るい。
「ミゲルに、言えません」
「今は言わない」
「でも、あの子は聞きます。母親の番号があったかどうか。空白だったかどうか」
「聞けば答える」
「それが残酷だとわかっていても?」
ドギョムは一拍だけ黙る。ミゲルの右手の腫れ、アルマの足裏の裂け目、屋根裏で入口を見続ける目が浮かぶ。嘘は一晩だけ人を寝かせる。翌朝には、さらに深い穴になる。
「嘘はラウクの仕事だ」
ヘナの指に力が入る。古いカウンターの角が、濡れた手の下で小さく軋む。
「生きているかもしれないってことのほうが、怖いです」
声は低く、怒りでも希望でもなかった。希望という言葉に触れた瞬間、指を折られる町で、それを口にする者の声だった。
ドギョムはうなずかない。慰めもしない。代わりに、死亡診断書の束を二つに分ける。死亡日あり。診断書あり。空白。診断書なし。
紙の山は、町の構造をまた一段深くする。
「グラディスは、どうやってこれを」
「昔の端末権限が少し残っていたそうです。死亡診断書そのものは保健局の文書処理室、発行番号の一覧はリハビリセンター、外来受付記録は郡病院。全部を一つの場所に置かない。だから誰かが一枚だけ見ても、異常に見えない」
「全部を重ねれば見える」
「だから彼女は震えていました」
ヘナは防水袋の底から、さらに薄い紙を一枚取り出す。番号の一覧ではない。余白にグラディスの小さな字がある。閉鎖鉱山、古い資料、換気塔、郡資料室一時保管。単語だけが、急いで書かれていた。
「これも。言葉だけです。詳しいことは、会ってから話すと」
ドギョムはその紙を見て、メモ帳の一行目へ視線を戻す。
二つ目の写しは、鉱山の埋もれた場所にある。
彼は初め、その文を地下のどこかを指すと読んだ。いまは違う。ジョアンは「鉱山」と書いたが、坑口とは書いていない。「埋もれた場所」と書いたが、死体とは書いていない。隠し場所でも、比喩でもない。
埋もれた、というのは塞がれた旧坑道。郡が安全点検を名目に回収した古い図面。そこに残る分岐と座標。
「場所じゃない」
ヘナが顔を上げる。
「何がですか」
「この一行だ。鉱山の埋もれた場所。言い回しじゃない。座標を指してる」
ドギョムはカウンターの上で、死亡診断書の空白列、ミゲルの母の写真、ジョアンのメモ帳を一直線に並べる。さらにグラディスの紙の余白にある「換気塔」を指で押さえた。
星形の中心は、坑口ではなかった。換気塔だった。地下へ空気を送る心臓。その周囲に、新しいコンクリートがあった。古い図面がなければ見えない、埋め戻された分岐がある。
ジョアンはそこへ二つ目の写しを隠したのではない。
そこから、空白の者たちの行き先へたどり着けるようにしたのだ。
ドギョムはついにエクセルの入力欄へ指を戻す。JR32、と打つ。まだエンターは押さない。非常口の外で、雨の向こうに一度だけタイヤが砂利を踏む音がした。
ヘナの手がカウンターの角を離れる。
ボウリング場の暗闇に、青白いヒントだけが浮いている。
JR32。
ドギョムは低く言う。
「旧い鉱山図面が要る」
ジョアンが残した「鉱山の埋もれた場所」という言葉。それは詩的な表現ではなく、閉鎖された坑道の隠された座標を指す暗号だった。
法が遅すぎる町で、今日倒すべき悪党を倒す男
48話 回収された旧鉱山図面
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