ジェユンは同意書を握り直した。紙の角が手のひらに食い込んだが、隠そうとはしなかった。ここで背中へ回せば、ただ盗みを働いた子どもになる。逃げれば、父は会社へ謝りに行く。
「運転職福利基金先払い同意書です」
声は思ったより低く出た。ソンロクの眉間が動いた。
「誰が、それを読んでいいと言った」
「誰も言ってません。でも、読まないと父さんが印を押します」
ソンロクは靴を脱ぐことも忘れて、玄関の段差に片足を置いたまま固まった。黒い外套の裾から冷えた朝の匂いが流れ込んでくる。ジェユンの膝の前には、開いた会社用かばん、三つの給与封筒、運転手別念書写しの束が広がっていた。
父の顔に、まず怒りが浮かんだ。会社の書類を勝手に開いた息子への怒り。自分のかばんを探られた怒り。だがその怒りはすぐ、別のものに押し戻された。
ジェユンが見ている紙の題名を、父は知っていた。知らないふりをするには、そこに自分の名前がありすぎた。
「置け」
「置いたら、父さんは会社へ持っていきます」
「置けと言った」
ソンロクの声が少し荒くなった。ジェユンは一歩も下がらず、同意書の一枚目を畳の上へ置いた。置いたが、手は離さなかった。
「三月末。福利基金先控除が初めて増えました。その日、父さんは城北洞別宅へ配車されました。六月にも同じ控除が増えて、その日はテガン建設本館へ入っています。今月の明細には、福利基金先控除の横に社内振替、精算日は空白。承認印はテガン建設管理チームです」
ソンロクの喉が動いた。
「……お前、どこで」
「昨日と今朝、見ました。今朝六時十分、外国銀行ソウル支店裏口へ会長専用一号車が入りました。チェ・ミンテ社長の車も一緒でした。チャン・ムンシク室長が書類かばんを持って降りて、守衛に言いました。クォン副支店長との朝の確認だと」
「黙れ」
「かばんの中身も言いました。運転手給与通帳の写しと、退職金確約書。建設側の一覧も入っていると」
ソンロクはその瞬間、怒鳴らなかった。むしろ声を失った。肩幅の広い父の体が、狭い玄関で急に大きな影ではなくなった。会社の会長車を乱さず走らせるために鍛えられた背中が、見えない何かを避けるようにわずかに引いた。
子どもが知っているはずのない内容だった。外国銀行の裏口。副支店長の名前。室長のかばん。退職金確約書。給与明細の控除欄。どれもソンロク自身が会社から詳しく聞かされていないものばかりだった。
恐怖は、怒りより先に来た。
ジェユンはそれを見逃さなかった。父が息子を疑ったのではない。会社の手が息子の身にまで及んでいるかもしれないと考えた顔だった。だからジェユンは畳の上へ、順番に紙を並べた。三月の給与封筒、六月の封筒、今月の明細、説明会通知書、出席者名簿、念書写し。
「一行目が父さんです。二行目がオ・マンシク班長。次がキム・チュンベ警備班長。父さんが先に押せば、班長たちは断れません。班長たちが押せば、下の人たちはもっと断れません」
「会社が、そんなことをするわけがない」
言葉は弱かった。ソンロク自身も、それが信じたいだけの言葉だと分かっていた。
「会社はもうしています。給料から先に引いて、社内振替にしています。まだ受け取っていない退職金を、確約書にして銀行へ見せています。今日ここに印が押されたら、あとから父さんたちが違うと言っても、書類には本人同意と家族確認が残ります」
ジェユンは一覧表の端を指で押さえた。
「ここです。家族確認欄。異議申し立て放棄欄。退職時精算欄。これは福利じゃありません。テガン建設の借金に、運転手の家族の退職金を縛る紙です」
ソンロクの手が伸びた。大きな手が、ジェユンの握る同意書を奪おうとした。ジェユンは避けなかった。父の指が紙の端に触れたところで止まった。
その一瞬、ジェユンは父が何を見ているのか分かった。小学生の細い腕。熱でまだ少し赤い頬。だがその奥の目は、子どものものではなかった。会長車の後部扉を開ける前に、相手の沈黙と危険を読む随行秘書の目だった。
ソンロクはまだ知らなかった。目の前の息子が、三十九歳までテガンの廊下で人の顔色と書類の余白を読み続けた男の記憶を持っていることを。だが知らなくても、違和感だけは分かった。息子の声は震えていない。怖がっているのに、順番を間違えない。
「誰に吹き込まれた」
「誰にも」
「子どもが一人で、こんなことを分かるはずがない」
「子どもだから、会社の人たちが目の前で話しました。見えていないと思ったんです」
それは半分だけ本当だった。ジェユンは嘘を重ねすぎないようにした。父は運転席で何度も危険な客を運んできた人間だ。雑な嘘は、車の異音のようにすぐ聞き分ける。
ソンロクはようやく靴を脱いだ。部屋へ上がり、ジェユンの前に膝をつく。親が子どもを叱る距離ではなく、同じ高さで書類を見る距離だった。
「お前がこれを持っていたと会社に知られたら、どうなると思う」
「分かります」
「分かってない。お前はまだ小学生だ」
「だから原本は持ち出しません。原本が消えたら、父さんがすぐ疑われます。必要なのは写しです。説明会で印が押される前に、写しだけ外へ出します」
「外へ?」
その言葉に、ソンロクの顔がまた強張った。
ジェユンは慌てて首を振るようなことはしなかった。急いで否定すれば、計画の重みが失われてしまうからだ。
「まず、家族が見る場所です。オ・マンシク班長の家。キム・チュンベ班長の家。自分の通帳と退職金が何に使われるのか、印を押す前に知っていないといけません」
「そんなことをしたら、皆が巻き込まれる」
「もう巻き込まれています。知らないまま押せば、もっと深く巻き込まれます」
部屋の外で、共同水道の蛇口が開く音がした。大家の咳払い、遠くの市場へ向かう荷車の音。いつもと同じ朝なのに、半地下の床に広がる紙だけが、家の空気を変えていた。
ソンロクは一覧表を見下ろした。パク・ソンロク。オ・マンシク。キム・チュンベ。名前の横に、空白の印鑑欄が並ぶ。空白なのに、もう押された後のように重かった。
「お前は……俺に会社を裏切れと言っているのか」
「違います」
ジェユンはすぐ答えた。
「父さんの名前を、会社の借金の下に置かせないでと言っています」
ソンロクの目が揺れた。その言葉だけが、怒りでも理屈でもない場所へ届いた。会長車の運転手であることは、父にとって誇りだった。遅れず、乱さず、余計なことを言わず、誰よりも正確に走る。その誇りを、テガンは家族確認欄のある紙に変えようとしていた。
「父さんが今日押したら、父さんの退職金だけじゃありません。母さんの確認までついて、あとで返せと言われても異議申し立て放棄です。オ班長の家も、キム班長の家も同じです。最初に写しがなければ、誰も紙の中身を証明できません」
ソンロクは黙っていた。沈黙が長くなるほど、ジェユンの胸は冷えていった。父が信じるかどうかは、まだ分からない。信じなくても、書類を破られたら終わりだった。
父の大きな手が、ふたたび同意書へ伸びた。今度は奪う速さではなかった。紙の端をつかみ、文字を一つずつ追う手だった。退職時精算。会社指定口座。本人および家族確認。異議申し立て放棄。
「……チャン室長が、本当にそう言ったのか」
「はい」
「チェ社長の車も、そこにいたのか」
「はい。会長車も」
「俺の車も」
ジェユンは一拍だけ置いた。
「はい」
その返事で、ソンロクの顔から最後の血の気が引いた。運転手として命令された道を走っただけなのに、その車が家族の退職金を担保に差し出す場所へつながっていた。父は初めて、自分のハンドルが何を運ばされていたのかを悟った。
だが次の瞬間、ソンロクは顔を上げた。恐怖だけではなかった。父親としての警戒が戻っていた。息子を守るためなら、書類も証拠も燃やしてしまえる目だった。
彼は同意書を半分だけ自分のほうへ引き寄せ、低く尋ねた。
「これを誰に見せるつもりなんだ」
答えを間違えれば、ここで終わる。父は会社を信じるためではなく、息子を守るために紙を破る。ジェユンはその目を見て、前世で何度も開けた会長車の扉より重い扉が、今、父と自分の間に立っていることを悟った。
財閥家の末息子ではなく、財閥家の運転手の息子に転生した
12話 三人が同じ紙を見る夜
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